【企画】覆面小説家になろう〜雨〜
No.08 Early summer rain

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僕は帰路の無い世界へと放り出されるのだ。悪くない、そう思った。
 思ったことを実行するように僕らは町を出た。景色自体は別段変わった感じはしなかった。でも気持ちは違って、なんとも表現できない不思議な感慨深さがあった。
「解放だ」
 ケンジの声が風に乗って聞こえてきた。解放、なんとも心地の良い響きだった。
 そのまま流れるままに、流れるままにと自転車を走らせ、気が付けばあたりも薄いグレーのような、淡いブルーのような色に支配され、朝を告げる色彩になっていった。自転車を適当な公園に止めて、ほんの少しだけ朝が来るのを待った。この季節は雨が降ったり止んだり気まぐれだ。今は少しだけ星が見え、太陽が昇ったら消えるのだろう。少しケンジと話した。
「この先さ、楽しい事とかあんまり無い気がするんだ。目標とか夢なんかもまるで見当たらないし。でも生きる為には関係無い事なんだ。やらなきゃ生きられない現実がある。こういうの考えるとさ、なんか子供みたいに駄々をこねたくなるよ」
 ケンジは笑って話していた。僕も笑った。面白かったからではなく、理解できなかったからでもない。考えたくないから笑った。駄々をこねてもよかった。
 それから僕らは何かから逃避するかのように、子供のように、公園の遊具で遊んだ。ブランコから飛び、砂場の砂を投げあった。 
 久しぶりに何も考えず遊んで眠くなった。だから僕らはしばし寝た。




 僕らを起こしたのは憤懣を覚える目覚まし時計ではなく、喧しい母親の声でもなかった。瞼の上に水の染み込む感覚がした。僕は目を開けて辺りを見る。辺りは時間が止まってしまったかのように暗く、緑色の空と表現したくなる色になっていた。星の出ていた夜の方が幾らか明るいだろう。ケンジもすぐに起きた。
 経験からしてこうった色合いに世界が包まれたら、きっとひどい雨になる。本来なら家に帰るのが正しい判断なのだろうが、僕らにもう家は無いようなものだ。だから自転車にまたがった。
 僕らは昨日から目指していた通り山を越えていく。思いだけが先行しているのかもしれない。小さく惨めな公園を出て、歩道を進む。電車の、バスの、人の流れが町へと向かっている。逆流しているのは二人の自転車だけだ。二人なのに酷く孤独に感じられる。
 その孤独感を増幅させるかのように気まぐれな五月雨は強く、激しくなっていった。僕らが山のふもとに到着したときは、すでに打ち付けるかのような雨となり、地面に落ちた雨が霧のように視界を遮った。
 ケンジは腕時計を見ていた。何を気にしているのかと聞くと、
「太陽が出ていないから時計が止まりそうなんだ。これ太陽電池だから」
 などと言って微笑んだ。時計なんか意味は無いだろうと思った。
 広くて歪曲した山道が上へと延びている。ケンジの乗った自転車が先に動く。僕はゆっくりとペダルを踏込む。傾斜の負担が足を襲い、雨はいっそう強く、激しくなった。アスファルトだからなのか、緩やかな滝のように上から下へ水流が生まれている。
 僕はすぐに体力が切れた。息は上がり、足が思うように動かない。何より視界が悪すぎた。降りしきる雨が白いカーテンのように眼前を覆い、弱りきった体と呼応する心を締め付けた。前を走るケンジだけが頼りのように思えて仕方が無くなっていた。
 離れたくない。僕を置いてかないでくれよケンジ。その思いだけで僕は走った。
 途中何度かケンジは話しかけてきた。
「辛いな。これだけ辛いと。最悪だった昨日さえまともに感じられるよ」
 昨日がまともで、今が異常なんだよケンジ。
「雨雲は山で跳ね返るからさ、反対側は晴れてるんだきっと。そこを一気に下るんだ。最高のスピードでさ」
 晴れているとは思えないよケンジ。戻っても、行っても変わるわけない、どうせ。
 いつしか僕はケンジの言った『解放』が辛くなっていた。

 ケンジのようには走れない、希望が持てない。

「もうすぐ太陽が山を越えるはずさ。それまでに俺は山頂から下りたい」
 ケンジは笑っていたのだろう。でもその顔は圧倒的な雨の壁で見えなかった。あるいは見ていればまた違ったのかもしれない。でも気まぐれな五月雨はそれを許してはくれなかった。いつのまにか雨は視界だけではなく、心まで奪い去ってしまった。
 僕はペダルを踏込んでいた足の力を抜き、傾斜の惰性に任せて自転車を止めた。ケンジの背中が徐々に遠くなる。車輪の音がかき消され、視界は奪はれ、そして気まぐれな五月雨はケンジを僕から奪った。
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