【企画】覆面小説家になろう〜雨〜
No.01 めぐりめぐってめぐるもの

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 間の抜けた声が、口からこぼれた。
 ブレーキを踏んだのかどうかも、覚えていない。恐らく踏んだのだろうが、完全に無意識でのことだ。いつのまにか車は停まっていて、わたしはハンドルにしがみついていた。
 バックミラーで、恐る恐る確認する。遠くにコンビニエンスストアの灯り。家からもっとも近いコンビニエンスストアだ。慣れすぎるほどに慣れた道。
 なぜ。
 なぜ。
 なぜ。
 ハンドルを握る手が、ブレーキを踏んだであろう足が、身体中のすべてが震えだした。寒いのだろうか。なにが寒いのだろうか。震えている。なにが震えているのだろう。身体が、心が、それともこの事態そのものが。
 傘も差さず、わたしは車から降りた。
 どうやって足を出せばいいのかわからない。それでも、なにかに操られるかのように、それに向かって歩いた。
 庇うように、両手で、腹部を押さえる。
 見てはいけない、見てはいけない──見なければ、見なければ。
 感覚のすべてが抜け落ちたかのようだった。
 力など入るはずもなく、膝をついた。



F−2

「それは、祝福してあげるべきでしょう」
 髪を茶に染めた会社の後輩が、したり顔でそんなことをいった。娘と二つほどしか違わない、若い男だ。
 私は、傍目からそうとわかるほどに不機嫌な顔をした。おまえに何がわかる、と。
「できちゃった婚なんてフツーですよ、イマドキ。順番はどうであれ、好きなやつ見つけてやることやって、結婚して幸せになって、さらにベイビーちゃんまで授かっちゃうわけでしょ、そんなめでたいことってないじゃないですか」
 男のくせに香水の匂いを漂わせ、べいびーちゃん、などと軟弱な単語を使いこなす。もう、答えてやる気も失せた。たまたま帰りの電車で乗り合わせ、たまたま浮かない顔してますねといい当てられ、ならばと話してみただけだ。アドバイスなど求めていたわけではない。
 むっつりとしたまま、私は彼に別れを告げ、電車を降りる。寄り道もせず歩いて、マンション二階の我が家にたどりついた。
 当然のように扉の向こうは暗闇で、さらに気持ちが重くなった。娘は、例の男のところなのだろうか。なにしろずっと会話していないのだ。いまどこで何をしているのかなど、わかるはずもない。とはいえ、会話をしていても、好きな男がいることすら知らなかったわけだが。
着替える気にもなれず、私はリビングの灯りをつけ、戸棚を開けた。もうしばらく見ていなかったアルバムを引っ張り出す。
 生まれたその日から、ページをめくる。目の大きな、男の子のような赤ちゃん。笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔……あまりの懐かしさに、鼻の奥がつんとした。妻の丸い字で、詳しすぎるほどにコメントが書き込まれている。女の子であることを強調するかのような、赤とピンクばかりの飾りたち。
 途中から、急に写真の数が減った。飾りは一切なくなり、コメントも書き込まれなくなった。理由など明白だ。妻の他界。
 男の手で作られたアルバムは、淡々と写真が並べられるだけの味気ないものだった。それでも、そこから暖かいものが充分すぎるほどに伝わってきて、私は涙をこぼしていた。
 休日に急な仕事が入ると、涙をこらえて行ってらっしゃいといっていた。帰りが遅くなっても、一生懸命待っていた。あの娘が、母親になろうとしている。
 いつまでも子どもだと思っていたわけではない。もう成人した、一人前の人間だと認めていたつもりだ。
 しかし、どうしても、準備ができていなかったのだ。何の防御もないところに、全力で拳を打ち込まれたようなものだった。
 祝福してあげるべきだという、後輩の声が蘇る。
 そうなのかもしれない。
 本当はわかっている。めでたいことだ。娘のことは信頼している。娘が選んだ男なら──順序を違えたことはどうしても許せないが──それほど悪い男でもないのだろう。
「祝福、か」
 放ってあるアルバムの一ページに、誕生日パーティーのワンシーン。苺のホールケーキを前に、娘が満面の笑みを見せている。
 もう、日付が変わろうとしていた。それでも、コンビニエンスストアならやっている。
 いつのまにか、雨が降り出していた。私は傘を手に取り、家を出た。



D−1

 カラオケボックスから出て、わたしたちは迷惑も顧みず、横一列にならんで歩いていた。
 わたしたち四期生は、もうじき卒業を迎える。今日は、卒業を記念した追い出しコンパ──まあ、簡単にいえば、卒業記念にかこつけたバカ騒ぎ──だったのだ。
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