【企画】覆面小説家になろう〜雨〜(9/19)


【企画】覆面小説家になろう〜雨〜
作:覆面作者



No.08 Early summer rain


 五月雨の降りしきる山林の車道を、僕はただ自転車で進み続けていた。
緩やかに曲線を描きつつ伸びる傾斜のアスファルトへ、緑色の空から舞う雨とは別に、肌寒い風に揺れる木々からも、絶え間なく雫が落ちて染み込んでいく。
 それでも汗が止めどなく額から流れ落ち、水分は奪われ、ペダルを踏込む足は限界と言っていいほど硬直し始めていた。山の空気は水を多く含んでいるのに、などと愚痴を漏らしそうになる。
仕方なく足の動きを止め、自転車の惰性にまかせて足を休める。自転車は傾斜を上りはするが、すぐに勢いを落とし、ギアは僕の運動を求め始めた。足を地面につけて休憩したいという誘惑に襲われる。また、自転車を百八十度反転させて、坂道を勢いのままに下ればどれほどすばらしいことかと考えてしまう。
でもそれができない。親友のケンジはずっと先に行ってしまっている。僕が足を止めてしまえば、もうケンジには追いつくことが出来ないのだ。ケンジは山頂で僕を待っている。気のいいケンジの事だから確実だ。今年こそはと言う思いもある。
毎年僕はこの梅雨時期、ケンジの待つ山頂に向かっては遅れてしまう。足を止めて、安易な休憩を取ってしまう。そんな自分が許せなかった。大学生にもなって、まだ僕は愚かな判断をしようとしていると。
四年前にケンジがどれだけ本気であったのか、僕は理解できていなかったけど、同じ過ちは繰り返したくない。ケンジに先で待たせるのは今年で最後にしてやる。その思いだけが全てだった。
僕は二本付けている腕時計を見て時間を確認した。まだ間に合う時間だった。同時に硬直した足をムリにでも動かし、自転車にエネルギーを送り続けた。気まぐれな五月雨は一段と激しくなり、視界さえ奪っていく。四年前もそうだった。視界の見えない車道。ケンジは常に僕の前にいた。



                  *


 
 高校三年、春とも夏とも言い難い時期であり、気がつけば制服を着る最後の年である。進路、就職、受験、色々なことに対して選択を迫られ、僕は完全に行き場を失いかけていた。何だか世界の仕組みのような物が見えてしまったような気がしてならなかったのだ。このままでは仕組みに組み込まれてしまうと。
山岳に囲まれた閉鎖的な町。そこから想像できる限界のある先。もう、うんざりだった。だから唯一の親友である、ケンジの誘いに乗った。
「なあ、どこか行かないか」
 くだらない。実にくだらない話だ。だからこそ惹かれた。最初は遊びの誘いかと思ったが、詳しく聞くと町を抜け出して山を越えてみようとケンジは言ってきたのだ。
 僕らは塾の帰り道だった。午後十時を回り、ケンジも僕も、もしかしたらただお腹が空いていただけかもしれない。ジャンクフードでも喰えば済む話だった。あるいは暇だったからだ。ゲーセンにでも行けばよかった。
 だが、僕らは駅前に多く駐輪されている自転車から二台を選び、ただそれにまたがったのだ。背中に背負ったサックの中身は、これも駅前にあるコンビニエンスのゴミ箱に捨てた。参考書に筆記用具、テストの問題用紙にカンニングペーパー。どれも今の僕には酷く大切なもので、クソみたいにどうでもいい代物だ。
 無計画に何かをしたのは初めてで、文句無しに楽しかった。僕らは深夜に差し掛かった時間にも関わらず輝き続ける町を自転車で進んだ。
 こんな時間なのに人が大勢いる。深夜残業でついさっきまでパソコンのディスプレイを眺めていたのであろう、胡乱な目をしたサラリーマン。顔をこれでもかと言う位に赤面させた大学生の二人組み。この場所と時間に居ても当然という表情で念入りにメイクを施している女子高生達。
 思えばここにいる人々は一番の犠牲者なのかもしれない。世界の仕組みに精一杯ついて行こうとした結果がこれらの現状なのだ。仕組みに取り込まれるには、それなりの犠牲が付きものだということなのだろう。
 間違っているとは思わなかった。これが生きていくための手段なのだし、それを放棄すれば何も出来ない事も知っている。あるいは放棄したからこそ『死』を選ぶ人が大勢いるのかもしれない。仕組みとは『生』なのだ。僕は『死』よりも『生』の方がいい。辛くともたまにはいい事もある。
そんな考えのせいか一瞬迷った。このまま自転車を降りて自宅へと帰り着き、また同じような日常を、仕組みにしたがって生きることが正しいのかと。
でも僕は頭を振って考える事を放棄した。もしこのまま進めば何かが変わるかもしれない。町を通り過ぎ、人の気配が消える。僕は帰路の無い世界へと放り出されるのだ。悪くない、そう思った。
 思ったことを実行するように僕らは町を出た。景色自体は別段変わった感じはしなかった。でも気持ちは違って、なんとも表現できない不思議な感慨深さがあった。
「解放だ」
 ケンジの声が風に乗って聞こえてきた。解放、なんとも心地の良い響きだった。
 そのまま流れるままに、流れるままにと自転車を走らせ、気が付けばあたりも薄いグレーのような、淡いブルーのような色に支配され、朝を告げる色彩になっていった。自転車を適当な公園に止めて、ほんの少しだけ朝が来るのを待った。この季節は雨が降ったり止んだり気まぐれだ。今は少しだけ星が見え、太陽が昇ったら消えるのだろう。少しケンジと話した。
「この先さ、楽しい事とかあんまり無い気がするんだ。目標とか夢なんかもまるで見当たらないし。でも生きる為には関係無い事なんだ。やらなきゃ生きられない現実がある。こういうの考えるとさ、なんか子供みたいに駄々をこねたくなるよ」
 ケンジは笑って話していた。僕も笑った。面白かったからではなく、理解できなかったからでもない。考えたくないから笑った。駄々をこねてもよかった。
それから僕らは何かから逃避するように、子供のように、公園の遊具で遊んだ。ブランコから飛び、砂場の砂を投げあった。 
 久しぶりに何も考えず遊んで眠くなった。だから僕らはしばし寝た。




僕らを起こしたのは憤懣を覚える目覚まし時計ではなく、喧しい母親の声でもなかった。瞼の上に水の染み込む感覚がした。僕は目を開けて辺りを見る。辺りは時間が止まってしまったかのように暗く、緑色の空と表現したくなる色になっていた。星の出ていた夜の方が幾らか明るいだろう。ケンジもすぐに起きた。
経験からしてこうった色合いに世界が包まれたら、きっとひどい雨になる。本来なら家に帰るのが正しい判断なのだろうが、僕らにもう家は無いようなものだ。だから自転車にまたがった。
僕らは昨日から目指していた通り山を越えていく。思いだけが先行しているのかもしれない。小さく惨めな公園を出て、歩道を進む。電車の、バスの、人の流れが町へと向かっている。逆流しているのは二人の自転車だけだ。二人なのに酷く孤独に感じられる。
その孤独感を増幅させるかのように気まぐれな五月雨は強く、激しくなっていった。僕らが山のふもとに到着したときは、すでに打ち付けるかのような雨となり、地面に落ちた雨が霧のように視界を遮った。
ケンジは腕時計を見ていた。何を気にしているのかと聞くと、
「太陽が出ていないから時計が止まりそうなんだ。これ太陽電池だから」
 などと言って微笑んだ。時計なんか意味は無いだろうと思った。
 広くて歪曲した山道が上へと延びている。ケンジの乗った自転車が先に動く。僕はゆっくりとペダルを踏込む。傾斜の負担が足を襲い、雨はいっそう強く、激しくなった。アスファルトだからなのか、緩やかな滝のように上から下へ水流が生まれている。
 僕はすぐに体力が切れた。息は上がり、足が思うように動かない。何より視界が悪すぎた。降りしきる雨が白いカーテンのように眼前を覆い、弱りきった体と呼応する心を締め付けた。前を走るケンジだけが頼りのように思えて仕方が無くなっていた。
 離れたくない。僕を置いてかないでくれよケンジ。その思いだけで僕は走った。
 途中何度かケンジは話しかけてきた。
「辛いな。これだけ辛いと。最悪だった昨日さえまともに感じられるよ」
 昨日がまともで、今が異常なんだよケンジ。
「雨雲は山で跳ね返るからさ、反対側は晴れてるんだきっと。そこを一気に下るんだ。最高のスピードでさ」
 晴れているとは思えないよケンジ。戻っても、行っても変わるわけない、どうせ。
 いつしか僕はケンジの言った『解放』が辛くなっていた。
ケンジのようには走れない。
希望が持てない。
「もうすぐ太陽が山を越えるはずさ。それまでに俺は山頂から下りたい」
 ケンジは笑っていたのだろう。でもその顔は圧倒的な雨の壁で見えなかった。あるいは見ていればまた違ったのかもしれない。でも気まぐれな五月雨はそれを許してはくれなかった。いつのまにか雨は視界だけではなく。心まで奪い去ってしまった。
 僕はペダルを踏込んでいた足の力を抜き、傾斜の惰性に任せて自転車を止めた。ケンジの背中が徐々に遠くなる。車輪の音がかき消され、視界は奪はれ、そして気まぐれな五月雨はケンジを僕から奪った。感じ取れるのは山林から香る瑞々しい緑と、木々に茂る葉に跳ねては落とす雨音だけだった。
 僕は気まぐれな五月雨が弱まるまで動かなかった。自転車も捨てて、歩いて山頂までいった。山頂に着く頃には、五月雨はまた強くなっていて、ケンジもそこにはいなかった。
山頂はとても開けていて、晴れていれば町を見下ろせる。でも今は何も見えず。僕はただ町が恋しくなった。その町を見下ろせる山頂に、ケンジがふもとで話していた腕時計だけが落ちていた。僕はそれを拾い、デジタルディスプレイを覗いてみる。時間は完全に停止していた。太陽からのエネルギー供給を完全に失ったのだ。だからケンジは捨てた。この気まぐれな五月雨に遮られて、心を奪われてしまった僕のように。
 僕は降りしきる五月雨の中を、ゆっくりと歩いて下山した。



                    *              



 僕は自転車を何とか前に進めながら、さらに山頂を目指した。四年前、下山した僕は町へ戻り、うんざりした仕組みに組み込まれた。でもケンジはいつまでも戻らず、町はケンジを行方不明にし、そして殺した。
 違う、確かにケンジは仕組みから解放を求めた。それが『死』だと昔の僕も思った。でもあの時、ケンジが五月雨の壁越しに見せていたのは、絶対に悲哀な表情ではなかったはずだ。笑顔だったはずなのだ。
 だからケンジは死んだんじゃない。先に行ったのだ。そして僕を待っている。
 僕は最後の力を振り絞って山頂までたどり着いた。五月雨が降りしきる中、僕はもう一度ケンジの残していった腕時計に目をやった。ケンジの止まった時計の時刻と僕の時計の時刻が丁度一致した。
気まぐれな五月雨は少しだけ力を弱め、緑色の空を割り、太陽の光を僕に注いでくれた。ケンジの時計が動き出す。僕は追いついたのだ。ケンジに追いついた。だいぶ待たせてしまったけど、僕はケンジをまた追うよ。
山頂は相変わらず広く、町を見渡せる。その端に小さな長方形の石が重く佇んでいる。僕はその前まで行き、思いっきりそれを蹴飛ばした。辺りに石の砕け散る音が響く。どこかで鳥の羽ばたく音も聞こえる。僕は自転車まで戻り、またそれにまたがった。
今度は山頂から下る道へと向かい、勢いをつけて一気にペダルを踏込んだ。自転車はすぐに速度を上げ、体に心地の良い風を供給してくれる。気まぐれな五月雨は変わらず僕に太陽を与えてくれる。でもすぐに気まぐれな五月雨は降り出すだろう。強く、激しく僕を打ち続けるだろう。でも今だけは、ケンジに追いつく今だけは晴れ間がほしい。
太陽の光が肌を照らし、失ったと思っていた汗を体から滲み出させた。こんな時になって僕は思った。春は過ぎ、暗澹たる五月雨の季節は終わろうとしている。もう間も無く暖かい太陽が燦燦と輝き始める。――もう夏なのだと。


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